ミスチルと秋元康の歌詞は、本当にダメなのか?

先日、こんな記事を見かけた

はてなブログを読んでいて、面白い記事を見かけた。

駄目な歌詞:ミスチルと秋元康 – 夏男ノート ttp://natsuo.hatenablog.com/entry/2015/02/04/001022

読んでいてすごく興味深かったし、面白かった。私としては、この「夏男」さんの意見におおむね賛同している。

ただ、一方でこうも思う。夏男さんがいう「ダメな歌詞」を書くことは、それはそれでセンスがいる作業なのではないかということ。

別に私個人としては、秋元康が好きではないし(ミスチルは好きだけど)、擁護するつもりもない(擁護されたところで億万長者たちに、どーこーなる話ではないけど)のだけど、やはり彼らの歌詞は凡人には書けない所業だ。

Rolling Stone (ローリング・ストーン) 日本版 2015年 01月号 [雑誌]

例えば、「愛してる」とか「君が好き」のような、これまで何万回も使い古されたフレーズを歌詞に盛り込むことは、独創的なフレーズを生み出すよりも、むしろ難しい。勇気がいることだし(だだ、厚顔無恥なだけかもしれないけど)、凡人にはとても真似できない。直喩を多用して、一から十まで説明して、陳腐な歌詞を組み合わせて……でも、それを曲として成立させられることも、ある種のセンスなのではないか。



これは私のライターとしての経験からの話だが、ベタな文章を書くことは、独創的な文章を書くことの何倍もつらい。

物書きとしては、世の中をあっと言わせるような名文を書いて、読者を感動させたいと常々思っていたりするのだけど、むしろライターという職業に求められるのは、ひとりの評論家にほめられる文章よりも、1万人の一般人に伝わる文章だったりする。その1万人の中には、意識が高い人もいれば、無関心な人もいる。言い方は悪いが「バカ」もたくさんいる。

そうした人たちに、ベタで、わかりやすく、そして共感してもらう文章を書くことはとても骨が折れる作業で、いつも「こんなにレベルを落としても大丈夫だろうか?」「いや、もっとわかりやすくしたほうがいいかも」など試行錯誤を繰り返しながら文章を作っている。

周りのライターも同じで、私が編集者としてライターに記事をお願いした際、ときおりとんでもなく独創的で素晴らしい文をあげてくれる人がいた。でも、「わかる人にしかわからない部分が多いから、もっと誰にでもわかりやすく書き直して」と言うと、たいてい彼ら彼女らは苦戦する

まぁ、歌詞と文章ではそもそものメッセージの伝え方のスタンスが違ったりもするとは思うが、同じ言葉を伝えるという行為において共通することは多い。必ずしも独創的なものを生み出すことが正解ではない。ぼんやりしている大衆にメッセージを届けることもまた正解だったりする。

もちろん、これまで聴いたことがないような、そして想像力をかき立てられるような素晴らしい歌詞で、その上で評論家も一般人も感銘を受ける作品を生み出せるアーティストが評価されるべきだろう。そんなアーティストこそが天才にふさわしい。

でも同時に、低いレベルの「言葉のセンス」を使いながら、世の中に受け入れられるものを作り出せる人もまた、天才ではないかと私は思っている。

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