酒鬼薔薇聖斗の手記「絶歌」で太田出版が批判されている
元少年Aの「絶歌」が出版されたことに対して、太田出版に批判が殺到している。被害者遺族の気持ちを考えていない、印税は被害者に入るのか、金儲けのためならなにをしてもいいのか…。出版の自由にだって責任はともなうはずだ!という主張もあった。
私自身は正直、読みたいと思わない。胸くそが悪い。
ただ、これまでフリーライターとして生きてきて、出版の業界にいたからこそ感じた思いもある。
ジャーナリズムとは何なのか…
私は一時期、知り合いから紹介されて、本業ではなかったが、いわゆる事件記者の仕事をしていたことがあった。大きな殺人事件から、議員の汚職、学校教諭のセクハラ事件など、ワイドショーや新聞、週刊誌の記者たちが集まる事件の現場に、私も記者としてそこにいた。
はっきり言って苦痛だった。もともと、私には正義感とかジャーナリズムというような崇高な思いが希薄で、殺人事件を起こした犯罪者は誰がどう見ても悪であるのはわかるが、だからといって自分が根掘り葉掘りと事件以外のこと、例えば犯罪者の経歴や交友関係について取材する権利はあるのか。ずっとモヤモヤしていた。
しかし、多くの記者やジャーナリストたちは私とは違う考えだった。当時の先輩ライターに言われた言葉がある。「世の中には知る権利があるし、我々は真実を知らせなくてはいけない。世の中は隠蔽されていることや間違って伝えられていることがたくさんある。そして、なにより読みたいという読者がいる」。彼ら彼女らは、そういった正義感というか使命感に燃えていた。
あるとき、中学校教諭による体罰が大々的に報じられたことがあり、私も事件の現場へ向かった。中学校の周辺で生徒たちにどんな先生だったのかを取材をして回る。「これは記者としての使命だ」と自分を思い込ませつつ一生懸命に取材をした。手当たり次第に近隣の家のチャイムを鳴らして聞き込みを続ける。中学校の下校時間に合わせて生徒たちにも話を聞いてまわることもあった。
先輩に言われた「読みたいという人がたくさんいる」という言葉が、ずっとひっかかっていた。読者がいる以上、きっと必要なことなのだ。正義とか悪とかいうものではなく「読者がいるから書く」。もっと単純なものなのかもしれない。
でも、私にはやっぱり無理だった。思春期で多感な若者たちに、見ず知らずの大人である私があれこれと話を聞くことはできなかった。読みたい読者がいて、書きたい人がいるのであれば、出版すればいい。ただ、それは私以外の誰かがやってほしい。私は読みたくないし、書きたくない。記者の仕事はやめて、同時にこなしていたファッションや旅行などに専念するようになった。
つまり私はジャーナリズムについて考えることから「逃げた」のだった。
「絶歌」を読みたいという人が実際にたくさんいたことは確か
今回の「絶歌」について、太田出版がどういう経緯で出したのかはわからない。
「こんなものはジャーナリズムではない!」と言う人もいるかもしれないが、それは書き手や読み手が各々によって捉え方が違うと思う。あの事件から元少年Aは何を考えたのか、たくさんの知りたいと思う読者がいるというジャーナリズムからかもしれないし、ただ単純に売れると踏んだからかもしれない。
太田出版が元少年Aの「絶歌」を発刊したことは「悪」なのだろうか? 私はジャーナリズムというものから逃げた立場なので正直わからない。
でも、読みたいという人が実際にたくさんいたことは確かだ。かつて先輩が教えてくれた考えからすると、ジャーナリズムが正当化された結果だ。なので太田出版を批判するのは間違っている。もしも批判すべきであれば、太田出版ではなく、出版業界やジャーナリズムという存在そのものに対してなのかもしれない。
ただ、読みたくないという人がたくさんいたのも事実。これが太田出版ではなく、大手の出版社だったら大々的に宣伝されて、見たくもないのに目に入ってきたかもしれない。でも、太田出版である。
なので今回の書籍に嫌悪感を持つ私たちがすべきことは「読まない」。それだけではないだろうか。そして、これは今回の書籍についてであって、「クイックジャパン」が読みたければ、それはそれで読めばいい。
ジャーナリズムから逃げた私は、そんな答えしか出せないでいる。